【掌中の珠 最終章 8】   



「お体は大事ないですが、残念ながらお子様は……」
最後を濁した医師の言葉に、玄徳と芙蓉は黙りこんだ。場所は花の寝室の外、離れの中庭。
孟徳との子どもだ。
玄徳と芙蓉は目を見合わせる。
「……花、はそのことは……」玄徳がつかえながら聞く。
「お伝えしました」
「花は、知っていたんでしょうか?」芙蓉の言葉に医師は視線をさまよわせた後、首を横に振った。
「おそらく、ですが、ご存じなかったのではと。驚いていらっしゃったので」
玄徳と芙蓉は医者に礼を言い、帰っていくのを門まで見送る。
「……どうします?」
芙蓉の問にはいろんな意味が込められている。
花は今どうしているのか。これからどうするのか。誰にどこまで伝えておいた方がいいのか。そして孟徳。
「こうなった以上は孟徳殿に伝えたほうがいい、と思うがな」
「……反対です」
芙蓉は以前よりは力のない声で相変わらず以前と同じことを言った。「……ですけど、まずは花の意見を聞くのがいいのかなと……思います」
玄徳はため息をついてうなずいた。「そうだな。まずは体が大事だ。ここは芙蓉、おまえ一人で花の体調と精神状態をきいてみてくれるか?」
芙蓉もそれにはうなずいた。男性には言えない痛みや辛さがあるかもしれない。

芙蓉が一人で入ってきたとき、花はまだ茫然としていた。ずっと体調が悪かったのはお腹に赤ちゃんがいたからだったのか。
孟徳さんとの……
もう空っぽになってしまった自分のお腹に手を当てる。
普通の女子高校生だったのがこんな世界に飛ばされて本当にいろんなことがあったけど、自分に子どもができたというのが驚きだった。よく考えれば子どもができることをさんざんしていたのだから遅すぎるくらいだったのだけれど。
そして気づかないままいなくなってしまったことにここまでショックと喪失感をもつことにも驚いていた。体の中が空っぽになってしまった感じ。
「花……体の方は大丈夫?どこか痛いとか……」
芙蓉が顔を覗き込むようにして寝台に座った。
花は無理をして笑う。「うん……痛いところとかは無いよ」
「そっか、それならよかった」
芙蓉もほっとしたように微笑む。「何か欲しいものある?食べたいものとか…あったかいお茶とか、おかゆとかどう?」
花は断ろうとして思い直した。「お茶、欲しいな。あったかいやつ」
芙蓉が扉から顔をだしてお茶を頼むと、しばらくして屋敷の人が温かいお茶を急須で持ってきてくれた。芙蓉がそれを淹れてくれる。
「ありがとう」
二人で飲んで、ふうっと同時に息を吐いたのに顔を見合わせて、そして笑った。今度は無理をした笑いではなく。
「赤ちゃん、残念だったわね……」
芙蓉が自分の掌の中のお茶を見ながら静かに言う。
「うん」
花も小さく答えた。
その表情を見て、芙蓉は良かったと思った。花も残念に思っているのだ。嫌な男に妊娠をさせられてこんな悲惨な目にあったのではない。足に鎖がはめられていたのは気になるが……
「もう思い出したのね?」
花は小さくうなずく。芙蓉は迷ったものの思い切って聞いた。
「花を助けた時にね、足に鎖がはめられていたの。どうしてそんなことになったのか聞いてもいい?」
芙蓉の言葉に花は小さくうなずいた。

あたたかな夕暮れ、芙蓉にすべてを話して疲れてひと眠りした後。花はお手洗いに行くついでに中庭の方へと足を向けた。なんだかあの部屋に帰りたくない気分だったのだ。
春が近いとはいえ、夕方だと時々冷たい風が吹き、庭の草木をゆらす。ゆらゆらとゆれる緑の葉を、花はぼんやりと見上げていた。川で流されてけがをしてからこんな風に一人で外でぼんやりするのは初めてかもしれない。
「立ったりして大丈夫なのか」
声がして振り向くと玄徳が離れの壁によりかかって立っていた。傍には誰もいない。
「玄徳さん……」
「こうして二人で話すのはずいぶん久しぶりだな」花がうなずいて玄徳のそばまで行くと、玄徳はそこにあった木でできた椅子をさした。
「座るといい」
中庭で風に吹かれてゆらゆらとゆれる木を見る。
「だいぶ風も暖かくなった。もうすぐ春だな」
「あの木もつぼみがいっぱいついてました」
そうして二人でしばらく黙ったまま揺れる枝を眺める。
「芙蓉からきいた」
玄徳の静かな声に、花は瞳だけで横にいる玄徳を見上げる。玄徳はつづけた。
「花はどうしたい?」
私はどうしたいか……
眠っている間にずっと考えていた。でもまだまとまってない。
「……私、孟徳さんのそばに居たいって思って、玄徳さんのところにも元居た世界にももう帰らなくていいって思ったんです」
「うん」
「でも孟徳さんの傍にいるっていうことがすごく難しくて」
「……ああ、そうだな」
「いろんな人を苦しめたり悲しめたり……死なせてしまったり。私がそばにいるだけで」
「うん」
「それで、私も私のままでいられなくなっちゃうんです」
人を殺して侵略して焼きつくして。権謀で陥れたり裏切ったり。孟徳の周りはそれが普通なのだ。そうありたくないという花の思いとは裏腹に。
「孟徳さんはそういう世界の人で、一緒にいるなら私もそういう風な考え方にならないといけなくて」
近づいてくる人をすべて疑い、信頼せず、利用する。
「じゃあ私はどうすればいいんだろうって」
花は中庭の木々を見ながらつぶやいた。「孟徳さんのそばに居るには、私はどうすればいいんだろうってずっと考えてるんです」
「そうか」
玄徳は優しく相槌をうつ。
「答えは出たのか?」
花の返事はなかった。
「寒くなってきたな。そろそろ部屋にもどるといい」
玄徳がそう促し、花はうなづいて立ち上がった。
「今日の夕飯はおいしそうだぞ、厨房からいい匂いがしていた」玄徳がそういうと、花はにっこりと微笑んだ。



「お、笑ったな」
目を細めて遠くの豪農の中庭を見ていた元譲はそういった。「だいぶ回復しているようだ」
隣で兵卒の恰好をして潜んでいる孟徳は何も言わなかった。ただ静かな表情で遠くにいる花と玄徳を見ている。
「部屋に入って行ってしまったな。俺たちももう帰るか。じきに暗くなる」
孟徳はそれにも答えずしばらく花が入っていった離れを眺めると、腰をかがめたままもと来た道を進み始めた。しばらく進むと見張りをしていた密偵のところにでた。
「ご無事でしたか」ほっとした顔の密偵と護衛二人とともに、孟徳は馬をつないである茂みまで歩いた。後ろから元譲がついてくる。馬にまたがり帰り道で、元譲は孟徳に聞いた。
「どうするんだ?」
孟徳は表情を変えずに前を見たまま答える。「どうするんだ、とは?」
当然何を聞かれているかわかってるだろうに、と元譲はため息をついた。「迎えに行くのかどうするのかっていうことだ」
「彼女は俺の妃だ。迎えに行かないなんて選択肢はない」
冷たい声が、余計孟徳の心を表しているようだ。だが元譲は敢えて言った。
「あのままの方があいつは幸せかもしれんぞ」
孟徳のそばに居なければ、仲良くなった友人が首を切られることも、保護したいと思った子どもたちが処刑される恐れもない。
「元譲、少し黙れ」
冷たい声でぴしりと言われ、元譲は無言になった。そして少し前を馬で行く孟徳の厳しい横顔を眺める。
生きている花を見た時、となりに潜んでいた玄徳の手が震えていたことを元譲は見ていた。横目で孟徳の顔を見てみたら、食い入るように遠くで立って木を見上げている花を見つめていた。
しかし生きていてくれた喜びの後、今は今後花に起こりうるすべての危険を考えているに違いない。皇帝を擁して丞相でいるということはそういうことなのだ。
孟徳もわかっていただろうが彼女への愛しさに傍に置いてしまい、結果がこれだ。ここで手放してしまったほうが、花がつらい思いをする可能性は低くなる。それよりなにより花が今回のように傷ついたり殺される可能性もかなり低くなるのだ。
孟徳は最初から分かっていた。花ももうそれが身に染みてわかっているだろう。
花が孟徳から離れることを選んだ場合孟徳がどうなるのか。元譲はそれが心配だったが、花が傍に居て花に今回のような害があって孟徳が苦しむのも心配だ。

なかなか天命にあらがうというのは、人の力では難しいのかもしれんな。

そもそも花がこの世界にきたことも天命からはずれているのだ。たとえ丞相の力をもってしても花を孟徳の人生に沿わせることは無理なのかもしれない.
元譲は何度目かのため息をつくと、馬の足を速めた。 




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